昭和40年05月19日 夜の御理解
(途中から)
ある方のお取次ぎをさせて頂いてから、まぁ感じたんですけれども、この人はそのパチンコ、パチンコ狂なんですね。もう自分でね、もうこれを止めなければもう家内が子供が助からん事がよう分かっておられるとですたい。でも自分もそのした後にはもう、はぁ、その途端泣き出そうごとあるげなけれども、パチンコ屋の前を通ったら寄らにゃおられないと言う、いや一つのもう病気なんですね。
私その方のお話を聞かせて頂きよったらもう、何か知らん本当にこう空しいという事をもう、こう胸が痛い程感じたんですけれどね空しい生き方と言う事。もうそのパチンコしとる間だけはですね一生懸命楽しいんでしょうねやはり。けどもその後のその空しさというたらもう、本当にもう自分がもう嫌になると言う位にあるち。でそれを思いながら、聞かせて頂きながらお取次ぎをさせて頂きながら思うたんですけれども。
そういう例えばパチンコ狂ではなくてもですたいね、私共は世の中の人がほんと、本当言うたら、実は毎日毎日をですもう空しい、悲しいまでの生活、ただ繰り返しておる、飲んで食うて、そしてちょいっと言い訳なんです。一生そういうようなことでおしまいになって行く人がどのくらいあるやら分からんと思うたら、いよいよ悲しいような思いがここにするんですね。
さぁ儲かったの儲からなかったの、誰がどう言うたの、こう言うたのと言いよるけれども、実に空しい。どうしてそういうような空しい悲しいまでのね、生活を皆がしておりながら、しかもその空しい生活からですたい、生きがいのある生活。今日もおかげを頂いてよかったと。今日もおかげを頂いて有り難かったと言うような毎日毎日のね、繰り返せれるような信心生活を皆がどうしてせんだろうかと私は思って。
本当にそれを今日思うたんですけれどもね。私は本当にこの神様を信じさせてもらい、神様のおかげでおかげを頂い、お生かしのおかげを頂いて、その神様のご御徳に対してです、日々神恩報謝の生活をさせて頂けれるということ。今日もおかげを頂いて良かった。今日も一家中が健康で、おかげを頂かせてもろうたと、働かせて頂いたということがです、有り難いと言う毎日。
この空しさのない生活。充実した生活、いわゆるね。そういう私は日々でありたいなぁとこう、今日もしきりに、しみじみ感じさせて頂いた。その私はその、パチンコ狂の方だけの事じゃないですよ。世の中には多くの沢山の人がです、そりゃなるほど、一つ、もうその、おー、一生懸命ずのでるごと働いた人もありましょう。ね、それこそとにかく人の持っとる茶碗でも叩き落としてからでも。
金儲けのために一生懸命なっとる人もありましょうと。果たしてです、ならけれども私のような今日の考え方で考えた時ですたい、何のために、こげん俺は金儲けしよっとじゃろうか。俺は何のためにこげんずのでるごと働きよるとじゃろうか、と、こうもしその答えがです、一偏思う、本当の事に触れてみられたらです、もう実に空しいことに気付かれて、本当に悲しいことになるだろうとこう思うのですよ。
信心とはね、そういう事を本当に教えてくれることなんだ。信心とはそういう本当のいき、生き道を教えてくれる事なの。毎日毎日が充実した、生きがいのある、ね、生活させて頂くことなの。なるほどこれがお徳というものだろう、これが信心の光というものであろう。これを持ってあの世に行けば、暗い所にはおらんでもいいぞと。この有り難さを持って行くならば、いよいよ現在は苦しいけれども有り難さがいよいよ本当なものに現実化して行くぞというような確信に満ちたです。
溢れたところのです、生活が出来るというような…。今日はそんな事を。先ほどご飯頂きながら、先生方とその事話したんですよ。私はこう空しゅう、空しゅう。1日を空しゅうした生活。なら信心があると言うてんなら充実した生活をしておる人ばっかりとは言えないと私は思うですよ。今日も教えに取り組むこともせずね、ただ拝んではおるけれどもです、教えを自分の生活の上に頂こうともせず、ただお参りしとるだけ。
言わば我情我欲のための信心であるならば、まぁ50歩100歩あんまり変わりないですね。我情我欲のための信心じゃあっちゃならない。私は今朝から、皆さんの色々なお取次ぎをさせて頂いてから思うんです、今朝、朝の御祈念に、総代さんの、あの、しげおさんが毎朝お参りして見えられるんですね。こうして毎朝晩、お参りしてみえるんですから、大変なことだと思う、思います。ね、
けれどもやっぱそこに一つの神願が立てられたところにです、その辛抱がやり抜かれておられる訳なんですけれども、今朝から、ご神前に出られたげならですね、山芋に白根がいっぱい出ておる所をご心眼に頂かれたて。山芋にね、山芋に白根がこう吹いておる所を頂かれた。本当に素晴らしいことだなぁと私は思うた。それから大和さん。この人も、毎朝、朝の御祈念にああして、皆さんもご覧のように参ってみえます。
今朝方ですね、もう自分からの家を、全部きれいに取り払われてしもうてですね、あそこはしっかり基礎が出来て、そこをコンクリーでしっかり固めておるところを頂かれたという。ただ今、原さんからお取次ぎ、お届けさせて、聞かせて頂いたんですけれども、まぁこれはちょっと、色々に差し障りがありますから、その御理解だけを申しますとですとですね、今のような状態ではですね、今のような椛目の信者さん方の状態では、私は死んでも死にきれないと言うお知らせを頂かれたという。
ここで先生と言われとる人達も、装束はつけておるけども、このだらぁとこうしたような状態。親先生が死んで、死なしゃったというのにです、さぁお葬式行かんならんというとに、その皆も着物だけは着けとるけれども、帯もせんなりぞろぞろ付いて行きよると言った様な生活。そしてその霊前には何が供えてあるかと言うたら、大きなあの冬瓜っていう、あの大きなのがありましょうが、昔夏夏になる野菜ですね。冬瓜にその真っ赤な冬瓜がいくつもお供えしてあるところを、その頂かれたとこう言う。
これはね、天地の親神様が私を通してですね、金光様がまた私を通してね、ここには、集まって来る皆さんに何を与えようとしておられるかということです。いわゆる信心なんです。信心の帯をせよとこう仰る。信心のし、言うなら着物を着とるだけではいかんのです。信心の帯をきちっと締めあげられなければ駄目なのです。先生方も装束つけとるちゅうだけでぞろびいとる信者さん方も、その着物を着とると言うことだけで、言わばその、帯をしてないといったような状態だと言うわけなんですね。
んならその、そういう求められておる信心とはどう言う様な信心になる事かと言うと、今日私がここで実感させて頂きましたですね、毎日毎日をようく考えてみてみると、今日も本当に空しい一日であったと言う様な一日であってはならない。今日も有難い一日であったと。今日も一生懸命働かせて頂いておかげ頂いたとね、今日もおかげを頂いて有り難うございましたと言えれる一日。でなからなければならないという事。
それにはなら内容としてですたい、まず繁雄さんの頂いておられますようにです、山芋のお知らせは、これは修行と、尊い修行と仰います。本気でその尊い修行にね、根は降りてくる。大地に根は、根をおろしてきた所の信心。揺るがない修行。修行の精神。同時に大和さんが頂いておられますようにです、まず何と言うても、自分の家の、自分の身の幸せも、家の幸せのです、いうなら繁盛もです、言わば砂上に楼閣を建てるようなことではつまらん。まず一つ本気で、土台を作れと、基礎をしっかり作れと。
それで基礎の上に打ち立てられて所の幸せでなからなければいけないぞと。神様はそういうような、私は信心を私共に求めておいでられるのだと。それには原さんが頂いておられますように、お互いが本気で信心の帯をせよと言うこと。信心の帯をせよとはどういうような事かと言うとです、我情我欲を満たすための信心ではなくてです、本気で信心させて頂くぞと。本気で信心で磨かせてもらうぞ信心にならせて頂くぞと。
本気で信心で改まらせて頂くぞと。日々、神様のおかげを頂かなければ立ち行くことではないという、思い込みをつくらせて頂いて、今日も神様のおかげで一日働かせて頂いたという事の喜びをです、実感させて頂くような、私は信心、信者をです、求めておいでられるのじゃなかろうかとこう言うこと。いうならば、いわゆる信心はしておっても、やはり空しい、空しゅう今日も過ごしたというのはです、教えに取り組むこともなく、実意丁寧にもならず、ただ走っておる事は我情我欲に頭が走っておるだけ。
働いたことは働いたけども、結論するとやっぱりこうして、こうすりゃいくらがとなるけんいうだけの働きであったと言うならばです、これは働きにはならんと言うこと。本当の働きには。今日一日も働かせて頂いたということは、自分が働いたと言うことによってです、神様が喜んで下さる、はたも楽になるというような働きじゃなかなきゃならんと言うこと。自分が働いたと言うことがです、神様にも喜んで頂けれるような働き方。同時に自分が働いたという事によって、はたも楽。
自分の周囲の者も楽になったと言うような働き。そこに私は、日々がです、充実した有り難い、今日も一日おかげを頂いて良かったと。おかげを頂いて有り難かったと。というようなですね、とにかく教えを、教えを抜きにしてです、教えを行じずしてです、ね、心の中に金光様を唱え続けずしてです、私は行じられた一日はまず何、まず私は、その空しい一日であったと思わなければならんとこう思うのですよ。
これをですね、例えば今のその、パチンコ狂の方がです、ね、パチンコに行く、もうそれこそ、目の前を通ったら通り抜けられんごとある。入ってだんやっておる時には、玉がジャージャー出てくる、楽しい。けれどもみんな負けてしもうてから表へ出る時の悲しさ、寂しさと。家じゃ家内が待っとる、子供が待っとる。今日もまた、家内がどげな顔して、しとるじゃろうかと思うただけでも、悲しゅうなると。
もう自分の心がつくづく嫌になるち。そういう空しい生き方を、この皆さんが聞かれてはそう思うでしょうけれども、それに似たようなですね、それと、まぁ本な当事、同じような意味合いのですね、生活しておるようなことなかろうかと。今日も一日相済まん一日であったと言うような場合、私はそうだと思うんですよ。教えに、教えを離れた生活。神様のおかげでっと言う思いを離れた生活。
私はまぁ言うならば空しい、一日である。本気でそういう事をです、信心で考えた時にですね、本当にこういう空しいことじゃいけん。本気でこりゃ充実した、有り難いという信心を自分の声に頂かなければ駄目。それには本気で信心の帯をしなければならないと。本気で信心の帯をさせて頂いて、我情我欲のための信心ではなく、本当に日々がいよいよ、その有り難さが深うなっていく、その有り難さがいよいよ尊いものに感じられるような、おかげを頂くための信心であり。
又そういう信心生活でありたいと、願わせて頂くような信心が身に付いてこなければならない。そういう信心が身に付いてくる時、私は神様が安心して下さる。言うならばです、私はもう何時死んだっちゃよかというようなおかげを、を頂く時じゃなかろうかと私は思うんですよね。今のような状態では、例えば夕べの、月次祭の後の御理解を頂いてから思うことなんですけれどもね、あれは私の感情ではなくてです、あれがもし神様の感情であったと、皆さんが受け止められたらおかげなのです。
又事実私はそうだと思います。ん。言わばこの方金光大神あってと、いう風に天地の親神様が表現しておられますようにです、ね。この方大坪総一郎が頂いておるところのおかげ。ね、せめてこの、この方大坪総一郎が頂いておるような心の上にも、形の上にもです、そういうお繰り合わせをです、皆さんが一人一人頂かれるようになられる。そのことを神様は願うての、あぁいう厳しい御理解だったという風に私は思うのですよ。
おかげ頂かねばなりません。